ひとりごと。

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向き合う。


話せる(書ける)タイミングは、自分が選んでいるように見えて、実際は選ばれてしまっている。そうこうしている間に、12月も約3分の1が終わるんですね。

向き合う。

正体のわからない恐怖と不安に占領されそうになりながら、数日間を過ごした。ときどき、ある。忘れた頃に、もう大丈夫と思えた頃に、いつもそれは唐突にやってくる。

その度に、忘れることを許してもらえないのかもしれないな...と思うし、もう大丈夫と思うことを許してもらえないのかもしれないな…などと思う。

恐怖も不安も、日常生活の中で珍しい感情かといえば全然そんなことはなくて、きっと誰だって、私だって、少しの恐怖心や不安くらいは日常生活の中で経験していることだと思うけど、その原因が自覚できるのと自覚できないのとではぜんぜん違う。本当にぜんぜん、違う。原因がわかっているのなら、その原因を取り除けば良い。(って口で言うほど簡単ではない場面も多いことはわかっているつもりだけど、でも、理屈的にはそういうことになるし、そうして時間をかけて克服してきた経験だって、少なくはない。)

でも、この数日間に占領されかけた恐怖や不安は、ちょっと類が違っていた。

その原因や正体は、形のはっきりしないとても漠然としているもので、姿は見えないのに、どういう訳か自分の心の中でぐんぐん巨大化する感覚があり、私は圧倒されて途方に暮れた。

探せばきっとある、はず…。そうは思っても、自分と向き合うことをさぼっている訳ではないと思うんだけど、一体何とどのように向き合えば、その原因や正体がわかるのか…一体何とどのように向き合えば、この恐怖と不安から解放されるのか…その方法がわからない。一生懸命考えるけど全然わからなくて、そのうちだんだん そんなこともわからない自分に嫌気がさしてきて、そんな自分にさらに戸惑い、誰にも頼ることもできず、むしろそんな姿を隠すために大切な居場所を遠ざける。

最後には、ひとりで疲れ果ててしまう。

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それでも、結果的には少しは向き合えた。んだと思う。

自分でも気が付かずにいるほどの些細な何かが、怖い、の感覚に直結する引き金になる。こんなふうに書いたら、自分でも気が付かずにいる程度の些細なことなら、そもそもそんなに怖がる程のことにはならないって。自分でもそう思わなくもないけれど。だからこそ、原因も正体も姿が見えず、心の中が混乱するし訳がわからなくなる。

…誰かの言葉?態度?…ない。自分でも気がつけずにいる本音?過去の経験?トラウマ?…そんなことを考え始めてしまった瞬間が、完全に自分と向き合う方向性を間違えた瞬間だったかもしれない。

 

恥ずかしながら、あの数日間の私の頭の中から離れなくなってしまっていたシーンのひとつは、両親が、当時(20代前半)の私の住まいに突然やってきて、分厚い興信所の封筒を目の前に出されたシーンだった。その封筒の中身の調査内容を、今も私は知らない。読むことを拒否した。何を調査されても、困ることなど何もない。私は落ちこぼれで期待に沿えない子供かも知れないけれど、人として間違ったことはしていない。

そんなことより私は、こんな形で両親に監視されたこと、興信所の封筒を私の目の前に出す無神経さ(本人たち曰く、親としての愛情)への絶望と恐怖の方が断然上回った。

どうしてそんなシーンが突然よみがえってきたのか、どうしてそれが、数日間のあいだ自分の頭の中に居座ったのかは、自分でもわからない。

もう、あの頃の両親はいない。何もかもが終わったし、変わった。

それなのに、ふとこうして頭の中に浮かんでくるシーンがいくつもある。内緒にしているけど、こんな現象が私の日常の中では少なくなくて、そのたびに私は、まるで私が一方的にしつこく責め続けているかのような気持ちになり、自分がとても嫌になる。過去と今の間で混乱しておかしくなっているのは、私の方。最終的にいつも自分を責めるし、最終的に自分のことをとても恥ずかしいと思う。

 

自己嫌悪に陥る時、自分を責めている時、自分を恥じている時。

そんな時の自分は自分を信じることができていないから、何もかもが疑心暗鬼になる。自分が見えているもの・信じているものたちは、全部自分の思い込みかもしれない…。ここに居続けていいんだろうか…。そんな時の私はとても疑い深くなり、選ぶ言葉からも優しさが遠のいていく。

コントロール不能

そんな時の「大切な場所をいったん自分から遠ざける」という選択は、私にとっての精一杯の配慮のつもりで、同時に、自分を冷静にするための最終手段なんだとも自分に言い聞かせていて、どこかすっかり自分に呆れ果てて疲れてしまった時の選択。それでも、恐怖と不安に負けて大切な関係を自ら壊すようなことをしていた過去に比べたら、これでも少し、冷静にはなれている。

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とても漠然とした恐怖と不安の始まり、からの巨大化。ただ、解放された瞬間はとてもすっきりしていた。解放された瞬間、=恐怖と不安の正体が見えた瞬間。自分を立て直す、でもなく、過去を乗り越える、でもなく、ただ消えてなくなった。

 

 

私が怖がっているものは、怖がることを許してくれない私自身。

 

自分でも気が付かずにいるほどの些細な何かが、怖い、の感覚に直結する引き金になる。その些細な何か自体は大きな問題ではなく、というより、普段の私なら、大丈夫と思える世界にすぐに自分を引き戻すことができている。言い換えれば、それは意識するまでもなく自分を信じているという状態であって、今と自分自身にぶれない軸を置いて生きている自分。

 

ふと、寂しかった瞬間。ふと、自分に自信が持てなくなっていた瞬間。…あの数日間の始まりには、そういう何かがあったんだと思う。そのタイミングの悪さとその些細な何かが運悪く重なったのかも知れないし、そこはよくわからないし追求しようとも別に思わないけど、何より、私の心の中で巨大化して占領しようとしていたものの正体は、誰かの言葉や態度でも過去の何かでもなく、「怖がることを許してくれない私自身」。私自身が恐怖を受け入れないことに夢中になり、大丈夫と思える世界にすぐに自分を引き戻してあげることができなかった。ただ、それだけのこと。ただの、私の失敗談。

 

ぜんぶ、ぜんぶ、自分の感情の原因は自分の中にある。そう思えた瞬間、ただのいつもの自分に戻れた気がして嬉しかった。自分の感情を誰かのせいにすることは、暴力と同じこと。ただの私の失敗と思えたんだから、それはとても平和な結末。

 

そして肝心なことをもう一つ書き加えると、「私が怖がっているものは、怖がることを許してくれない私自身。」…この腑に落ちていく感覚、完全にデジャブだった。

この感じ…この感触… 数か月前の自分も同じように苦悩して、同じように恐怖と不安が消えた瞬間を体験している。酷似。

忘れることを許してくれない、は、たぶん正解。忘れてはいけない。